時計師フランク ミュラーは、自分のブランドを極めて最新の注意を払って育ててきた。その象徴的な存在こそがウォッチランドである。その場所はフランス国土に食い込むような形で国境を接するスイスの国際都市ジュネーブの郊外、ひなびた村ジャントゥにある。ジュネーブの中心地からおよそ車で半時間、幹線道路を離れてフランス国境に向かう坂道を昇りきった静かな村は今、“フランク ミュラーの聖地”として、世界的に有名な場所である。
PHOTO : ウォッチランドは1905年に建造されたネオ・ゴシック様式の城館レ・ザマンドリエを本拠地としている。
時計学校を主席で卒業後、美術館級のオールドピース修復のキャリアは、あらゆる機械式時計の機構や意匠に通じ、自在にその奥義を引き出す手腕をフランク ミュラーに与えた。それは伝統を忠実に継承すると同時に、新しい息吹を吹き込むことだ。才能を経験で磨き上げた若き時計師は1987年、今も超絶技巧の時計師が集う世界的に有名な団体AHCI(独立時計師アカデミー)に、6番目の正会員として加盟が認められた。
複雑時計の名匠へと歩みを速めながら、フランク ミュラーはもうひとつの才能である卓越した美意識を、特別注文でのみ製作していた時計に反映していく。この上なく複雑な時計が、繊細で美しくつくられることは、非常に難しい。それが可能な天才を世界は放っておかない。1992年、すべてがシグネチャー・モデルの時計ブランドが正式に発足した。夢の時計は人気が沸騰し、社会的成功の象徴であると同時に、時計の通であり、確かな美的基準の持ち主の証明となった。そこにレディースの爆発的人気が合流し、男女ともに熱烈に求められる奇跡的なブランドが完成した。
フランク ミュラーの時計が
圧倒的な信頼感を有する理由
この成功に慢心することなく、フランク ミュラーが採ったのは、完璧な時計をつくる空間と体制である。最初の工房の近くにあった、ジャントゥ村にある1905年竣工の古い城館が選ばれた。建築家エドモン・ファティオによるネオ・ゴシックスタイルの建物は、著書『武士道』で日本の精神性を世界に伝えた新渡戸稲造が、国際連盟事務次長であった1920年代に住んでいた建物である。以前の5000円札の肖像でもあった新渡戸はジュネーブで7年間を過ごし、“国際連盟の星”とも呼ばれた。実はジャントゥはかつての日本総領事館があった場所なのだ。
日本とも不思議な縁で繋がるその建物はウォッチランドの本館と定められ、整然としたフランス式庭園が整備されて、建物も増やされた。それは理想の時計をデザインから完成まで、すべてを一貫して行うことのできるアトリエ群であり、次世代の時計師を育成する場でもあった。フランク ミュラーのウォッチランドは、まさに時計の王国として地上に現れたのである。
時計をつくるための盤石の体制は、フランク ミュラーの時計に圧倒的な信頼感をもたらしている。たとえどんなに複雑であり、繊細な機構を備えていたとしても、それは脆弱であってはならず、実際に普段使いできるものでなければならない。フランク ミュラーはかつて「美しい時計をつけている人は、過ごしている時を大切にしている」と述べている。その確信が、ただ複雑なだけの時計をつくることを自ら戒めた。
しかもその時計は、定期的なメインテナンスがスイスのウォッチランドと同じ技術水準で、日本で受けられる。たとえば「ヴァンガード 7デイズ パワーリザーブ スケルトン」は、複雑時計の域に達している約7日巻きの超ロング・パワーリザーブを持ち、目利きの美意識も魅了する華奢なオープンワークで構成されている。それでもその時計は、コレクションケースに大事に仕舞い込む必要はなく、毎日でもつけることを想定し、推奨する。フランク ミュラーがつくるのは、いつも楽しめる時計なのである。
東京・銀座に高水準の
テクニカルサービスを設置
フランク ミュラーでは日本の愛好家に向けて、時計の故郷であるウォッチランドの工房に準拠した厳密なメインテナンスを東京・銀座にあるテクニカルサービスで行う。主にグランド・コンプリケーションなどの複雑時計を手がけるベテラン時計技師のもと、12名の時計技師が万全の体制を敷く。このようなユーザー本位の姿勢を貫いているからこそ、どれほど繊細な機構を備えた時計でも安心して使うことができる。
FRANCK MULLER
フランク ミュラー
1958年スイス、ヌーシャテル州の時計の街ラ・ショー・ド・フォンで生まれる。ジュネーブの時計学校を首席で卒業し、博物館やコレクターから依頼されるオールドピースの修復作業で技術を高め、キャリアを積む。1992年に自身の名を冠した時計ブランド、フランク ミュラーを発足。