VANGUARD
The Shape of Excellence 絆を忘れない気持ちが永遠に大切だと、“時の先駆者/ヴァンガード”とともに、娘にも伝えたい。
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目覚めると、雪が積もっていた。雪が降りしきる朝は、なぜか、外の気配が静かに感じられる。この感覚は、子どもの頃から続いていて、目覚めたとき静まりかえっていると、妙にワクワク、ソワソワしてくる。とても、不思議な感覚である。

初雪からは、随分と日にちが経っていて、積もるほど降るまでには、少し時間が掛かったと聞く。でも、雪は、舞っているだけより、積もってくれたほうが、嬉しい。何メートルも積もってしまう雪国の人たちには申し訳ないけれど、正直、嬉しい。

いつもは、二人だけで出かけてくることの多い高原の住宅だが、今週末は、そろそろ雪が見たいという娘が一緒である。昔ながらの言い方だが、日頃の行いが良かったおかげか、天も見事に味方についてくれた。近くのゲレンデに出かける計画はなくても、心の底では、ウキウキしている。

降りしきる雪を眺めがら、なにを呑むか。横目で窓の外を伺いながら、なにを調理するか。強力な暖炉のおかげで薄着で過ごせるキッチンで、メニューの候補がグルグルと駆け巡っている。降り積もる雪を見てはしゃぐ年齢など、とっくの昔に卒業しているはずだが、激しく降り積もっていると、年齢のことは、勝手ながら忘れることにしてしまっている。

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我が儘ついでに言わせていただければ、真っ白な雪景色を背景に、前衛的で、カラフルな腕時計を自慢してみたい。

娘ももちろんだが、家族で愛用するのはヴァンガードである。伝統的な技術を大切にしながら、革新を追い求め続けるフランク ミュラー ウオッチランドらしい先進のモデル。直線と曲線が織りなす個体ならではの、美しさが際立つ。

「人生における時とは、道標のない大海原を航海するようなものである。だから、自由な気持ちと、自らの意志を優先して欲しい」、というフランク ミュラーの言葉を実践するかのように、文字盤の外周に沿って細かくコンパス方位が刻んである。文字通り、ヴァンガードは“時の先駆者”である。

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FRANCK MULLER Story
天才時計師は、まだまだ、不屈の努力と知識を求め、追い続けます。
FRANCK MULLER Story 01

独立時計師としてのフランク ミュラーから、腕時計ブランドとしてのフランク ミュラーへ。これまで、特別な愛好家のためにだけ、特別に複雑な機構を備えたオリジナルの腕時計を製作してきたフランク ミュラーでした。しかし、ある程度の数量があるフランク ミュラー ウォッチを製造していくことへ、ギアを切り替えていくことを提案されたのです。

キッカケは、ヴァルタン シルマケスとの出会いです。ヴァルタンは、シンプルな機構の腕時計でも良いから、フランク ミュラーの腕時計を多くの人々に提供していきたい、というビジョンを持っていました。

「特別な愛好家やコレクターのために製作していた腕時計は、1点だけの製作ですから、当時でも、200万円、300万円クラスです。30年ほど前の価格ですから、現在ならもっと高額になってしまうでしょう。当然、そんなに高額な腕時計を手にすることができる人は多くはないでしょうから、これからは、一般の人たちでも興味を持てる価格帯の腕時計を、ある程度ですが、量産するべきだ、とヴァルタンに説得されたのです」

フランク ミュラー自身は、当初、腕時計を量産することを断りました。それでも、ヴァルタンは、複雑な機構に惹かれて購入する愛好家ばかりではなく、フランク ミュラーという時計師に関心があり、ブランドに惹かれて購入する一般ユーザーも必ず存在する、と考えていたのです。

熱心に説得されたフランク ミュラーは、コレクションとして量産モデルを展開することを了承。ただ、幾つかの条件をつけたのです。

「まず、ケース素材が、カラーとして、最低でも4色を用意することです。つまり、ホワイトゴールドやイエローゴールド、ピンクゴールドなどですが、最初は、グリーンゴールドまで揃えた、5色のラインアップだったほどです。さらに、文字盤のカラーも何色か揃えることを条件としました。そうすれば、デザインの幅が広がり、ユーザーの選択肢を増やすことができます。“一人ひとりのお客さまの、あなただけの腕時計”というコンセプトで、カスタムメイド的な雰囲気を強調したかったのです」

フランク ミュラーが、1992年、初となるコレクションを出展し、発表したのが、正式名称をSalon International de la Haute Horologerieという、略称をS.I.H.H.という展示会。バーゼルフェアと肩を並べる国際高級時計の展示会ですが、通称ジュネーブサロンとも呼ばれています。

「フランク ミュラーという名前は、すでに知られていました。しかし、それは愛好家やコレクターの世界だけでの話しです。もちろん、自分の名前をさらに売り込もうというつもりはありませんでしたが、コレクションを揃え、発表した以上、今後は、ビジネスとして広く展開していく必要があります。そのためには、ジュネーブサロンのような、世界中からバイヤーが集まってくる機会を積極的に活用すべきだと考えたのです」

フランク ミュラーは、この1992年、バーゼルフェアにも参加しているのです。しかも、それぞれの展示会で、ジュネーブサロン用とバーゼルフェア用という、まったく異なる新作コレクションを発表しています。そればかりか、1992年は、ビッグブランドから依頼されたという2本の世界初の機構もあり、この年だけで、合計5本もの世界初を発表。フランク ミュラー自身が、とても忙しい1年だったと振り返っていました。

“時の哲学”という、独自の境地に到達したフランク ミュラーですが、自らの名前を冠した量産モデルを展開するためには、また、次元の異なる叡知を研ぎ澄まし、努力する必要があったのではないでしょうか。

FRANCK MULLER Story 02
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