週末は、始まったばかりである。それなのに、もう、週明けのことが気になってしまう。せっかくの希少な週末だからといって、何処かへ出かけるとか、何かを無理にすることもない。何もしないで過ごしてしまっても、それはそれで、とても有意義な時間の過ごし方なのかもしれない。
おまけに、天候の詳しい予報を調べてみると、曇り空が続き、時々、雨が降ったりやんだり、と予報士の女性が語りかけている。無理に出かけなくてもいいよ、と言ってくれているのでは、と勝手に決め込んでしまう。
まずは、いつものショップで手に入れてきた、焙煎されたばかりの豆を挽き、ハンドドリップで淹れる。深煎りで、苦みはあっても酸味の少ない、好きな香りと味を確かめたところで、座り慣れた椅子に身体を預ける。
ラップトップを起動し、目的はなかったのだが、フォト ファイルを開けてみる。パラパラとマウスを動かしながらめくっていると、フッと目を惹いたカットに出会った。日付をみると、かなり古い。背景とか、季節とか、二人の服装から判断すると、出会ったばかりの頃に違いない。
手首にあるのは、普段は時針も分針も、つねに12時を指し続けている腕時計である。だが、プッシュボタンを押した瞬間、2本の針が瞬時に現在時刻へと移動し、ハッと我に帰ることができる。二人のために、この特別な機構を選んだのは、二人が大切な瞬間を迎えたとき、時間のことは忘れて集中しなさい、と見守ってくれているような感覚になれるからだ。
週末は、いつも駆け足で去ってしまう。ただ、どんな時間を過ごしたとしても、できるだけ心地良くして、週明けを快く迎えたい、と強く思う。
シークレット アワーズ
文字盤だけ眺めていると、時を報せる役目を忘れているのでは、と思えます。でも、いつもの二人が、時間に追われることなく、より濃密な時を過ごせるよう時の束縛から解き放ってくれる、シークレット アワーズ。
密かに時を刻み続ける腕時計、それがシークレット アワーズです。文字盤をみると、通常は、時針も分針も12時の位置に留まり、ただ秒針だけが動いています。ただし、9時位置のプッシュボタンを押すと、時針と分針が素早く動き、瞬時に現在時刻を指し示してくれます。つまり、文字盤に表示される時間は止まっているように見えても、内蔵している機構は時を刻み続けている仕組みなので、着用しているオーナーが時間を知りたいと思ったときだけ、時刻を表示できます。たとえば、時間の経過を気に掛けながら、何かに集中しなければいけないとき、時間のことは忘れて集中しなさい、と優しく見守ってくれているような感覚。フランク ミュラーは、複雑な機構を駆使し、“時を遊ぶ道具”としてシークレット アワーズを発想し、時の束縛を自ら解放することの大切さを提案しています。
フランク ミュラーは、ジュネーブの時計学校で、初めて情熱を注ぐことのできるものに出会えた、と語ってくれました。それは、時計師という職業でした。初めて、トップクラスの職人を育てる学校で、自分に相応しいと感じる、これだ、と思えるものに出会えたわけです。おかげで、時計学校で教えられたことは、すぐに自分で応用することができ、入学して3ヵ月ほど経ったときには、かなり優秀な成績をあげることができたそうです。
「かなり嬉しかったですね。それまでは、あまり勉強が好きではなく、成績も良くありませんでした。ところが、時計学校の成績は、1番です。人生初の、1番になれるものを見つけました。時計学校に入学する前は、夢ばかり追い求め、ボンヤリとしている少年でした。蚤の市通いと骨董品を除けば、なにかに興味を持って熱心に打ち込むこともなく、勉強が嫌いなので、そのままでもいいと思っていました。ところが、時計師という職業に出会い、こんなにも熱中なれるものがあるのか、と自分自身、とても驚きました」
時計学校には、3年間、通学したフランク ミュラーですが、スグに一人前の時計師になれるわけではありません。彼が通っていた時代は、コンピュータもありません。だから、卒業後には、熟練時計師と呼ばれる大先輩の工房などに見習生として入れてもらい、先輩の技術を学ぶしかなかったのです。ただし、熟練時計師が、弟子として受けいれてくれればの話しです。
「時計学校を卒業する頃には、かなり成績が良かったので、大きな時計のブランドで働くこともできたかもしれません。しかし、私の家系では、莫大な資本をもった会社に雇われる、という選択肢は、絶対に考えられません。代々、独立した仕事をやってきた家系ですから、誰かに雇ってもらうのではなく、なんとしてでも自分で生きていく道を選びたかったのです」
フランク ミュラーは、時計学校で学んでいくうちに、これなら、修理できなくて困っている旧い複雑な時計の修理などしながら、独立した時計師として、やっていけるのではないか、と確信したのだそうです。
「若いときというのは、突っ走りますよね。カッチリとした確かな展望がなくても、走り始めてしまいます。誰かに、何かを言われれば、そうか、じゃあ行ってみようか、とスグに行動に移してしまっています。今、想い出しても、あの頃は、まったく後先を考えず、ドンドン突き進んでいましたね。まるで、時計の中毒症状にかかってしまったようなものです。実際、時計には、ある種の麻薬的な要素があり、中毒にかかってしまいます。他にない魅力に溢れているので、ドンドン引き込まれていってしまうのです」
「時というものは、無限です。ところが、自分たちが生き続けられる時間は、有限です。そこで、この時というものを、なんとかして手中に収め、我がものにしてしまうことを願うのですが、時を掌握することはできません。無限と有限の時が織り成す、ギリギリの緊張した狭間に、時計が持っている、ある種の麻薬的な要素が展開されているのではないでしょうか」
フランク ミュラーが、“時の哲学”という境地を拓き、あの複雑な機構を発想してきた背景には、彼自身が歩んできた独自の道程が垣間見えます。究極の技と叡知を育んだからこそ、現代の天才時計師と讃えられるのです。
(さらに、次回へ続きます)