心地よい晴れ間が広がり、心躍るような稜線が走り、大きな盆地を取り囲んでいる。高速道を経由して、まだ都心から2時間とは走っていない。盆地へ下っていく高速道の周辺には、収穫期を迎えた蒲萄の棚が広がっている。美酒と呼ばれるワインのために、太陽を浴びてきた葡萄である。
高速道を下り、しばらく曲がりくねった山道を上っていく。久し振りの高原地帯には、洒落た店ばかりか、住宅も増えている。冬の季節を迎えると必ず凍結してしまう、直線が長く、橋脚の高い橋を通過し、深い渓谷を越える。高度を稼いでいくうち、背の高い落葉針葉樹が目立ち始める。
週末住宅は、海抜1200mほどにある。濃い緑ばかりか、すでに始まっている落ち葉に埋もれてしまいそうな気配だ。森のなかに愛犬を放すと、スグに見えなくなってしまった。陽のある時間帯でも厚手のジャケットが必要だが、日没を迎えれば、ダウンジャケットが欲しくなるだろう。
ドアはもちろん、窓という窓を開け放ち、新鮮な空気と入れ替える。木々の香りが部屋に満ちていくなかで、ランチだ。盆地を走り抜けていたときから、地元産のワインと素材に狙いを定め、自慢のレシピを繰りながら狙いを定めた。
居心地の良さそうなチェアとブランケットを、デッキに引っ張り出す。たっぷりとした陽射しのなかで、サッと風が通り過ぎる。小鳥の鳴き声、愛犬の息遣いが、遠くから届く瞬間がある。ワインの余韻、昼下がりの睡魔が、襲ってくる。
陽射しが生み出す影が長くなり、フッと時間が気になる。しかし、何にも縛られない、自由な時間を過ごしたい。たまには、得難い自由を手に入れ、独断で過ごすために、都会を離れたのではないか。そのために、高原の住宅はある。
勝手な時を過ごすため、不思議な腕時計を愛用している。文字盤のトップには、12の表示がない。60分間という時間が経過する頃を見計らい、時針に注目していると、留まっていた時針が、もの凄い勢いで次の時刻へジャンプする。
過ぎていく時間も、これから迎える時間も、誰のものでもない。しかし、今は、自分だけのものでもない。きっと、二人だけのために、存在を見いだす時間ではないだろうか。
クレイジー アワーズ
1日の時間が、24時間/12時間制に分割されたのは、古代エジプト時代。ところが、常識を翻し、時刻表示を変えてしまった腕時計が存在します。クレイジー アーズだけの自由な時針の動きは、二人にとっても、特別な意味を持つに違いありません。
クレイジー アワーズは、時の概念についてまったく新しいアプローチで創作されました。ごく当たり前に慣れ親しんできた、12時間に分割された時の在り方を打ち破った腕時計です。12というインデックスは、文字盤の一番上にはありません。毎時、60分間という時間が経過し、正時を迎えると、時針は、現時刻から次の時刻へと瞬時にジャンプし、次の60分間が経過するまで、その時刻を指したまま留まっています。文字盤に配列されたインデックスは、通常とは異なり、自由気ままに配置されています。1日が24時間/12時間制に分割されたのは、ファラオが君臨した古代エジプト時代のことです。以来、文字盤の数字や目盛りは、デザインを変えることはあっても役目を変えることなど、ただの一度もありませんでした。インデックスの配列を自由に考え、実行したことは、複雑時計に異彩を放つフランク ミュラーだから可能になったことです。
ジュネーブ時計学校を卒業したフランク ミュラーは、18歳になっていました。時計学校での成績は首席でしたが、時計ブランドに就職するのではなく、独立した時計師への道を選び、スヴェン アンデルセンさんの工房に入ります。デンマーク出身のアンデルセンさんは、著名な老舗時計ブランドの複雑時計部門で活動した後、自らの工房を設立した時計師です。
「アンデルセンさんには、雇われたわけではありません。正確には、彼の工房内に、自分自身の独立した工房をつくることを許されたということです。日本流には、弟子入り、とでも言うのでしょうか。工房で手伝いをしながら、師匠がやっていることを間近で見ることはできますが、ただし、給料はありません。直接、教えてもらうこともありません。時計学校を最優秀の成績で卒業したといっても、熟練した時計師とくらべれば素人も同然です。私が、彼の工房に入って最初にやったことは、床掃除です」
アンデルセンさんは素晴らしい師匠だった、とフランク ミュラーは懐かしみます。弟子入りをし、技を見せてもらいながら技を習得していくことは、アンデルセンさんにとっても誇りとなる、と教えてくれました。
「アンデルセンさんの工房には、4年間、お世話になりました。フランク ミュラーの基礎の一部は、この4年間でつくられました。熱せられた鉄が、成形される前の状態ですね。フランク ミュラー、という形を成す前の時代です。作業を盗み見て、熟練時計師の技を学んだわけです」
いよいよ、ここからが、華々しいフランク ミュラー ストーリーの始まりです。アンデルセンさんの工房にお世話になっている頃、すでに、最初の顧客から注文を受け、自分の仕事も進めていました。また、多くの時計メーカーが、複雑時計の製作を依頼。そんな時期が過ぎ、世界最大の時計・宝飾見本市、バーゼルフェアに出品した腕時計が注目されたのです。
「1986年でした。バーゼルフェア開幕前日に、スイスの美術系新聞のトップが、“ゴールドハンドが製作した、かつて例のない複雑時計、フェアに現る”と、大々的に取り上げたのです。フェアの開幕前にもかかわらず、この記事がセンセーションを巻き起こしました。おかげで、時のスイス大統領が、フェアに来場され、私の腕時計をご覧になったのです」
バーゼルフェアには、独立時計師たちが出展するアカデミーというブースがあります。この年、初登場のフランク ミュラーが出展したのは、『フリー オシレーション トゥールビヨン』。ジャンピングアワー式のトゥールビヨンで、3個のスモールダイヤルが独立している複雑時計です。
「腕時計にトゥールビヨンを搭載したのは、初めてです。しかも、フリー オシレーション/自由振動という、独自のコンセプトで発想したトゥールビヨンです。当時は、愛好家の間で複雑時計といえば、ポケットウォッチのトゥールビヨンなどが、もっとも複雑とだされていた時代です」
これまで、数々の特許を取得してきたフランク ミュラーですが、このジャンピングアワー式のトゥールビヨンが、第1号です。この後、パートナーとなるヴァルタン シルマケスとの出会いがあり、フランク ミュラーという自身の腕時計ブランド発進へ向けて、大きく動いていきます。
フランク ミュラーは、不屈の知識欲や努力により、究極の技と叡知を磨き、数々の複雑な機構を発想。この彼自身の道程が、現代の天才時計師と讃えられ、“時の哲学”という独自の境地にも結びついていきました。
(さらに、次回へ続きます)